tebikae

て‐びかえ【手控】 〘名〙 ①心おぼえに手許に控えておくこと。おぼえがき。また、それを書く手帳。[日国]

みそ汁との和解

実家を出て7か月半にして初めてみそ汁を作った。はじめからだしが混ざってるみそで、すごく簡単なやつだけど、たぶん小学校の調理実習以来だった。

みそ汁を作るぞ、と決めて買い物をしていたわけではなく、冷しゃぶを作ったら茄子ともやしが余って(冷しゃぶのたれの袋に書いてあったレシピに従って茄子をレンジでチンして縦に6つくらいに裂いて添えたところ、やたらおいしくてテンションが上がった)、お、なんかみそ汁っぽい取り合わせだな、と思って、突発的に。

だからどうしたという話なのだが、自分がなんとなくみそ汁を作る気分になったというのが私としてはちょっとした事件だった。

というのは、私にとってみそ汁というのは、出されたら食べるけど自らすすんでは食べないもので、例えばバイキング形式だったら取らないな、という感じのものだったから。子供の頃は好きでも嫌いでもなかったはずなのだけれど、いつからか、あまり好きではなくなっていた。

私の母は有難いことにかなりちゃんとごはんを作ってくれる人で、食卓には、ほぼ毎晩、当然のようにみそ汁が出てきた。食べられないほど嫌いというわけではないので残しはしなかったけれど、そこまで好きじゃないなあとぼんやり思ってるものを毎日食べてるとどうなるかって、どんどん好きじゃなくなっていくのだ。ぼんやりした「好きじゃなさ」の輪郭が、どんどんはっきりしていく感じ。

そんなわけで、ひとり暮らしを始めて起こった大きな革命のひとつが、みそ汁からの解放だった。毎日作ってくれていた母には申し訳ないにも程があるし、あらゆる方面に怒られそうだけど、もうみそ汁を食べなくていい!と気づいた時、ああ、家を出てよかったなあ、としみじみ思った。

実家も職場も都内なのにわざわざ独立したので、どうして?とよく訊かれる。時期も中途半端だったし。家を出たかったから出た、という以上の説明ができなくて、毎回、嘘にならない理由を適当に答えている。

でも、こういう小さなことの積み重ねが、結構大きかったんだろうな、と思う。みそ汁を食べたくなかったのではない。いや、食べたくなかったけど、原因はそのこと自体ではない。毎日みそ汁を食べたりとか、そのほかいろいろな小さな諦めを重ねていくことで、自分の好きなもの、好きではないものが、じわじわと曖昧になっていく感じが、まずい、と思った。それは共同生活を送る上では必要な譲歩であり付けるべき折り合いだとは思うし、私のしていた我慢なんて大したことではなかったと分かっているけど、ここにいたら、ずっとこのままだ、という、ささやかな危機感みたいなものが、たぶんあった。

でも、半年と少し経って、私は自分で作ってまでみそ汁を食べている。おいしかった。余っていたレタスとトマトも放り込んで、思い付きで豆板醬を入れてみたら、みそ汁というよりミソスープという感じの味になったけれど、それはそれで乙なものだった。

茄子ともやしとトマトとレタスに火が通っていく捉えどころのない香りが、だしの混ざっている液状みそをお湯に入れた途端、てきめんにみそ汁の匂いになって、わー、みそ汁、作っちゃったよ、とちょっと笑ってしまった。みそ汁を食べなくてもいいんだ!と思ったときよりも、余程、自由になった気がした。

そうやって少しずつ、いろんなものと和解している。食べ物だけに限っても、たくさんある。実家にいるときは常に2パックくらい買い置かれていたのに半年に一度食べるかどうかだった納豆を、冷蔵庫に常備するようになったりとか。まだ仲直りできていないものもある。生のタマネギとか。って食べ物ばっかりかよ。

私は「自分って何だろう?」「私の生きる意味とは?」みたいなことを考えずに思春期を通り過ぎ、自己分析というやつが嫌いすぎてろくにやらないまま社会人になってしまった。今ようやく、自分の好きなものや嫌いなものにちゃんと向き合いはじめたのかもしれない。情けないことだけれど。

長澤まさみに「あんたもしかして死んでんじゃない?」って仙台で言われた話

…というわけで行ってまいりました、キャバレー仙台公演。


【ゲネプロ30秒】松尾スズキ×長澤まさみ 伝説のミュージカル「キャバレー」が10年ぶりに復活!

この後ちゃんと確認したら「キレイ〜神様と待ち合わせした女〜」(2014)は観てなかったので小池徹平コンプリートではなかったわけなんですけれども。

ツイッターで何度も言ってることなのですが小池徹平さんは本当に見るたび佇まいがミュージカルの人らしくなっていて、すごく幸せな気持ちになります。やったー!って。勝手に。

今回もね、小池徹平さんも、良かったんですけど。しかし、何しろ、長澤まさみの魅力が!!すごかった!!すごかった……!!

これはキンキーブーツを観た時の小池徹平さんと三浦春馬さんについてのツイートなんですけど、長澤まさみさんもちょっとそういうところがあって。中学生のときには「世界の中心で、愛をさけぶ」、高校生のときには「プロポーズ大作戦」と、私の中高6年間を通してずっと彼女は好きな女性芸能人ランキングのトップ争いをしてる感じで、出るドラマ出るドラマみんな見てるし放送翌日はみんなめっちゃ長澤まさみの話してる!みたいな状態だったんですけど、その頃ちょうどサブカルこじらせ女子に片足を突っ込んでいた私は「確かに美人だけどさ~~私は麻生久美子とか市川実日子とかの方が好きだわ~~~」とか思っていたという(お二人のことは今でも大好きですが)。

それが、キャバレーの猥雑な雰囲気の中に彼女が現れた瞬間。「長澤まさみーーーーー!!!!」って、応援上演だったら両手にサイリウム持ってハッピ着て立ち上がってたとこだった(応援上映でも立ち上がっちゃだめです)。そこからずっと、目を離せなかった。

背が高くて手足が長いからそれだけで存在感があるし、仕草に華があって、あと表情がいちいち魅力的だった。キャバレーの歌姫という役柄のせいもあるかもしれないけど、自分が魅力的だってことを知ってる人!っていう感じだった。

ずっと大勢の人の視線や好意を浴びてきた人には、独特の凄みのようなものがある気がする。キンキーブーツの時も思ったけど、そういう見られ続けてきた人の魅力、迫力は、生で見るとやっぱり一番実感できるなあと思う。こうやって、みんな好きだから、人気があるからという理由で勝手に見くびっていた人たちのことを、再発見というか、ちゃんと素直に認められるようになるのは、とてもハッピーでラッキーなことな気がする。全ての才能ある人たち、魅力的なお芝居に出てほしい。

作品全体を見ると、演出にはちょこちょこ気になるところがあったし(ってメモってあったから書いてるけど、何が気に食わなかったのかは忘れてしまった)、ナチス政権が台頭しはじめる頃のベルリンが舞台ということでその辺もっと踏み込むのかと思ったらそうでもなくてちょっと肩すかしだったりとか、細かい文句はいろいろあるんですけど、長澤まさみのミュージカルの才能を見つけてくれてありがとうの気持ちだけでも東北新幹線往復22,400円の元は取りました。

物語の終盤、恋人との別れを経てキャバレーの舞台に立ったサリーが(そういえばここまであらすじも書かずに来てしまいましたが、長澤まさみの役どころはベルリンのキャバレーで働くイギリス人の歌姫サリー・ボウルズでした)「あんたもしかして死んでんじゃない?」って吹っ切れたみたいな笑顔でお客に言い放つのが、どうしてかわかんないけどなんかめちゃくちゃ泣けた。

恋人との子供を身ごもって、一緒にアメリカに行って子供を育てようって言ってもらったのに、その希望に従うことが彼女には出来なかった。それよりベルリンのキャバレーで歌うことを選んじゃう。ナチスが台頭し、戦争の影が差すベルリンの。

そんな舞台でサリーはどうしようもなく輝いていて、そのやけくそじみた明るさが、舞台に上がることを選んでしまう人のかなしさというか、やりきれなさというか、業みたいなものを引き立たせていた気がする。

そこに投げ込まれる「あんたもしかして死んでんじゃない?」。

感想で言及している人が見つけられなかったので、私の幻聴っていう可能性が捨てきれないんですけど、長澤まさみにそれを言われた瞬間、嗚咽が洩れそうになったんですよね。ほんと、なんだったんだろうあれ。

f:id:katanoina:20170316204800j:image

(どうしても向かいのマンションが写り込んでしまって、母に「巨大化したまさみちゃんが仙台の街を踏み荒らす話やったんか?」って言われた写真)

20170211「キャバレー」@仙台サンプラザ