tebikae

て‐びかえ【手控】 〘名〙 ①心おぼえに手許に控えておくこと。おぼえがき。また、それを書く手帳。[日国]

懐かしさとは

私にとって、ふるさととは眺めるものだった。

水田、丈の低い野菜の畑、点在する木造家屋。大きな麦わら帽子を被ったおばさんが、何か農作業をしている。手拭いを肩にかけたおじさんの運転する軽トラックと、ヘルメットをかぶった中学生の自転車が、畦道をすれ違う。

都会ではなく、景勝地でもなく、わざわざ訪ねる人はなく、そこで生まれ育った人がただ暮らしている場所。さまざま不便はあるのだろうけれど、電気やガスや水道や生活必需品には不自由なく、原風景と言われるものの面影を残しつつも、東京のまんなかと基本のところは恐らくさほど変わらない現代の日本の生活が営まれている場所。

私はそれを、新幹線や高速道路を走る車から、窓越しに見たことがあるに過ぎない。でも、「ふるさと」と言われて思い浮かべるのは、そういう「どこか懐かしい」と形容されるような風景だ。

 

子供の頃、私の生活圏には田んぼも畑もなかった。ひとりで出かけられる範囲が狭かったこともあるけれど、休日あるいは学校の行事で遠出をする道中のほかで田畑を目にすることはなかった。

それなのになぜ、春先に水の張られた田んぼや一面金色の稲穂を見て懐かしさを覚えるのだろう。私の懐かしさの感覚は、ずいぶんと心もとない。

私がふるさとと聞いて思い浮かべるべきは、6年ほど暮らした家の真横を走っていた高速道路の灰色の橋桁であり、10年余り暮らした団地のあちこちに配されていた謎のモニュメントであるはずだ。実際に長い時間を過ごした場所の風景よりも、ふるさとのステレオタイプみたいなものを懐かしいと思ってしまうなんて、阪神高速がかわいそうじゃないか。

 

人は、人類が生活するのに適した環境を、美しい、好ましいと感じるものなのだと聞いたことがある。木々や花、海や川といった「自然」を愛するのは、木の実や果物、水、それから魚などを得やすい場所で暮らすことが、生き延びる上で望ましかったからだと。

その特徴は、「どこか懐かしい」風景と重なる。私が田園に心惹かれるのは、人類が太古の昔から暮らしてきた環境に近いからなのかもしれない。

 

しかし。

私が美しい、好ましいと感じる風景は、豊かな自然に限らない。阪神高速の橋桁については特に思い入れはないけれど、大都会の中の景色に惹かれることだってある。人工物に対して私が感じる美しさ、好ましさは、どうしてくれるんだ、と。

例えば、職場から見渡せる、西新宿のオフィス街。雨上がりに陽が差すと、濡れたビルの肌がきらきら光って、それがちょっと息を吞んでしまうくらいきれいだ。

私に景色を美しい、好ましいと思わせているのが生存のための本能だというのなら、これは一体どういうわけで湧いてくる気持ちなのだろう。雨や朝露に木々の葉が光るさまを無意識のうちに思い出して、懐かしんでいるのだろうか。

 

それってちょっとSFみたいだ、と想像する。

遠い未来。人類は環境を制御されたシェルターの中だけで暮らすことを余儀なくされている。シェルターで生まれ育った私は森を知らないし、雨が降るところだってはめ殺しの覗き窓越しにしか見たことがない。

ふと外を見ると、数日降り続いた雨は止んでいて、雲間から太陽が顔を出し、林立するシェルターが光を浴びている。猛毒の雨に、有害な太陽光。それらは人間をシェルターに追いやった原因にほかならないはずなのに、その眺めはどうしようもなく私の心を打つ。見たことのない森のために、かつて地球に存在していたという人類が暮らすのに適した環境の記憶のために、私の涙は流れている。私はそれを知る由もない。