tebikae

て‐びかえ【手控】 〘名〙 ①心おぼえに手許に控えておくこと。おぼえがき。また、それを書く手帳。[日国]

2017年8月に観た映画

10月も半ばですけど8月に観た映画の話をします。重大なネタバレはしてませんが、あらすじとかも説明してないので、観てないと何のこっちゃだろうなって感じの自分用メモ。

長いので要点を先に言っておくと、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーを観よう!!」「みんな、ジョジョを観てあげて…」です

~もくじ~

映画館で観たもの

銀魂』~銀魂の実写化というプロジェクトには感謝するがしかし~

2017.08.05 sat @TOHOシネマズ日本橋

キャスティングとキャスト陣のビジュアルと演技は良かった。すごく良かったんですけど。

それ以外のクオリティについてはもう物申したいことしかありませんでしたね!(具体的に物申したかったポイントについては長くなったので脚注へ…*1

33分探偵とか勇者ヨシヒコシリーズは好きだったので、監督の作風との相性ではないはずだし、原作に思い入れがあるから点が辛くなってるとかそういう問題ではないと自分では思うんですけど、どうでしょうか…専門家の評が知りたいところです……

とは言いつつも、トータルの印象としては、キャスト陣がほんとに好きだったので、その加点があまたの減点を補ってぎりぎりちょっと余った感じです。わたし的には(長くなったので続きはまた脚注へ*2)。

キャスト全員「この人でよかったな!」と思ったし、キャスト発表時のコメントも、公開前に読んだいくつかのインタビューも、みんな面白くて、映画が観たくなった。元から知ってた俳優さんも知らなかった俳優さんも、全員好感度が上がって、それが私にとってはとてもハッピーな体験だったんですよね。

だから、実写化してみてくれて良かったなあと思うし、このメンバーでの銀魂はもっと見てみたい。でももし続編があるのなら、そして監督が続投するのなら、せめて場面の切り替えと音の作り方は上手になっておいてほしい。そしてできれば尺は半分くらいにしてほしい。ていうかテレビドラマにしたらいいんじゃないでしょうか。dTVで配信されていたドラマは映画よりもちゃんとしてたし。福田監督には、2時間超の映画は手に余ってるんじゃないかな……と思いました。

 

まあ、その前に観たのが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』という音楽と映像が最高な映画だったので、比べたらかわいそうなんですけどね!

決して緻密で隙がない映画というわけではなくて、ストーリーの細かい部分にはいろいろ突っ込みどころがあるものの、音と映像は文句なしに気持ち良かった。極彩色の宇宙や派手なアクションももちろん良いんだけど、特におおー!!となったのは冒頭の回想。今まで私が観た映画の中で、3Dである意味を一番感じたシーンでした。3Dの映画って、どうしても3D感を出そうとして、動物とか武器とかがこっちに向かって飛び出てくるのが多いじゃないですか。そうじゃなくて、奥にぐわっと景色が広がってるの。きれいだったなあ。

それからもはや関係ないんですけど超最高な冒頭5分が公開されてるのでついでに貼っときます。


映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』のベビー・グルートの可愛さ満載の冒頭5分映像!

宇宙!SF!な戦闘シーンと爽やかポップな音楽のミスマッチ!最高!グルートかわいい!!

……話が逸れましたが、何が言いたかったかと言うと、そういう「ああ、映画館で映画を見たなあ」という幸福感が、銀魂にも少しでもあったらよかったのになあ、ってことです。Twitterでもおんなじようなこと言ってますけど。

※「この感想」っていうのは、次のジョジョのとこで貼ってるやつです

 

 

というわけで、結論としては、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーシリーズ、みんな見てね!!ブルーレイでもDVDでも貸すから!!最近洋画でたまにあるブルーレイとDVDのセット、あれ何なんだろうね!!ブルーレイ版とDVD版それぞれ作るより安上がりなのかな?!って感じです。

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DVDとブルーレイと、ダウンロード配信用コード(全部内容は同じ)をまとめて今なら3000円台!なんでだ!なんでそんなに安いんだ!!

ジョジョの奇妙な冒険』~悪くないじゃん!!むしろ良いじゃん!!~

2017.08.09 wed @バルト9

私が一番応援してる夏映画です。

コケてるっていろんなとこで言われてるけど、そんな酷評するような映画じゃないじゃん…面白いじゃん…いいじゃん…ねえ……?

こちらの一連のツイートを見て、ほうほうどれどれ、って観に行ったんですけど、ほんとにお客さんはあんまり入ってなかったですね……あんまりっていうか、びっくりするくらい……入ってなかった………

原作は2部まで読んだ…かな……?という感じで、今回映画になっている4部に関してはアニメだけ、それも悪い人が岩にされるとこは観た…はず……くらいの状態で観たので、ファンには怒られちゃうかもしれませんが、そんな人でも映画単体で楽しめるようになってて良かったです。登場人物が魅力的で、物語の先が気になって、音や映像のクオリティにストレスを感じなくて……という、劇映画として最低限ちゃんとしといてほしいところがちゃんとしてたなあと思いました(べ、べつに同時期に公開されたもうひとつのジャンプ作品の実写映画を念頭に置いて言っているわけではないんだからね……)。

山﨑賢人の仗助くん、私はすごく好きでした。ビジュアル発表された時は、体がごつくない…画風が違う……と思ったけど、ちゃんと格好良かったし、応援したくなった。

あと岡田将生の使い方が上手。銀魂でも大概顔の良かった岡田将生さんなんですけど、ジョジョ岡田将生はちょっと引くほど顔が良かった。あのどうかしてる髪型への違和感を捻じ伏せる顔の造作はもちろん、表情の作り方にすごく気が配られている感じがしました。岡田将生にこんな表情させてみました博覧会って感じ。ありがとうございます。これからも狂気を孕んだ役をいっぱいやってください。

狂気と言えば、山田孝之が、普通に現代日本で日常生活を送っている人とは思えない悪人っぽさですごかった。山田孝之は普通の生活送ってないのかもしれませんけど。人殺したことある顔じゃん、と思いました。

そして何と言っても、國村隼演じる仗助のじいちゃんがねえ、とても良かったです。

何度もジョジョファンに言っては嫌な顔をされてるんですけど、私、ジョジョの楽しみ方がずっと分からなかったんですよ。笑うとこなのか?格好良いと思わなきゃいけないとこなのか??って戸惑い続けて疲れちゃうのと、登場人物の気持ちが分からないというか、感情の振れ幅についていけないことが多くて。

私の中では「気持ちが分かる」には「その人が死んだら彼が悲しくなるということが理解できる」っていう段階と「その人が死んだら私も悲しくなる」っていう段階があって、物語を楽しむのに最低限必要なのは前者なんですけど、ジョジョ原作はそれが突破できなかったんですよね。

でも、この映画では、あのじいちゃんが死ぬのは悲しいし、あのじいちゃんを殺した奴は憎い、っていう気持ちを私も共有することができて、それが大きなポイントだったかなという気がします。物語に乗っていけた。具体的に言うと、「そりゃ岩にもするわ!」って思った。

映画を観た後、原作を読もうとTSUTAYAに寄ったらちょうど4部だけ全部借りられていたので、とりあえずアニメを観たんですけど、筋が分かったせいか前に観た時より面白く感じはしたものの、「そりゃ岩にもするわ!」ってとまでは思わなかったんですよね、やっぱり。「岩か…そうか……」って。

映画では、登場人物の感情、行動の説得力みたいなものが増していて、それが私にとっては良かったのかもしれない。その改変が許せない人もいるんだろうなあとも思いましたけど。わかりやすい感動ストーリーにするんじゃねえ、そういうんじゃねえ、的な。

アニメと映画で印象の違うシーンは他にも結構あって、それが意外でした。アニメも原作そのままではないんでしょうけど、思ったより原作から変えてるんだなあって。

特にびっくりしたのが京兆。あんた随分二枚目にしてもらったねえ!いやあ、このビジュアルのキャラクターによく岡田将生をキャスティングしようと思ったな!?

でも、さまざま変更を加えても、少なくともこの映画の中では物語も人物も破綻してなかったと思うし、監督がそのキャラクターをこういう人として見せたい、っていう思いがしっかりある気がして、そこにとても好感を持ちました。当然と言えば当然ですけどね。そうじゃなきゃね、わざわざ実写映画作る意味ないよね(べつに!!同時期に!!公開された!!もうひとつのジャンプ作品の実写映画を!!念頭に置いて言っているわけでは!!)。

もうかなりの映画館で上映が終わっちゃってますが、お近くの方はぜひ観てあげてください。そして続編を一緒に観ようぜ!

warnerbros.co.jp

 

スパイダーマン:ホームカミング』~あー、アメリカの高校生じゃなくてよかった!~

2017.08.13 sun @TOHOシネマズ六本木

ホームカミング参加したくなさすぎて死にそうになった。

いやひと言目がそれかっていう感じですけど、観てる最中、ホームカミングいやだ!!日本の高校にホームカミングがなくてよかった!!!!っていう気持ちが高まりすぎてマジでちょっと涙出ましたからね。

ホームカミングという行事で何をやるかは学校によってかなり違うみたいですが(嫌すぎて思わず調べた)、この映画で出てくるホームカミングには、男の子が女の子を誘って参加するパーティ的なものがあってですね。もうそのルール説明がされた時点で、「オレ、ホームカミング、ニクイ…プロム、タオス……!!」って怒りに我を忘れ知能の低下した自分を必死に宥めるのに脳の30%くらい持っていかれてしまって大変でした*3

「思い出して、あなたはアラサー」
「ア、ラサー…?」
「高校はとっくに卒業したの」
「コ、コウコウ…ソツ、ギョウ…?ウッ……」
「だから、アメリカに行くまでもない。ホームカミングもない、プロムもない、その他折々の行事で男女ペアを作らされることはもう、ないのよ」
「ウ、ウオオ……!!(清らかな光に包まれ浄化され、何かちっちゃくてかわいい生き物になる)」

さて。本編の話もしましょう。

脳の70パーセントで観ても、面白い映画だったと思います。全体的には。でも、最近気づいたんですけど、いつの間にか私は「子供が大人の言うことを聞かずに勝手なことをして痛い目を見る」話がめっきりだめになってしまっていて、その点かなりきつかった。

もう、あの歳(高校生)の男の子にあんな高性能なスーツを渡したら、絶対危ないことするじゃないですか。ピーター・パーカーがどんな実績でスーツをもらうに至ったのか本作ではちゃんと説明されないということもあり、なんで渡したんじゃ!持って帰らせたんじゃ!!とすら思ってしまった。

まあ、前日譚にあたる作品を観てないっていうのが大きいんだろうとは思うんです。観てから調べたんですけど、本作はMCU(Marvel Cinematic Universe)の16作目(多いな!)なんですよね。

私は幸いアイアンマンの一作目は一応観たことがあったので、あのおじさん(名前ド忘れした)が大企業の社長でアイアンマンやってるってことは知ってたのでギリギリセーフって感じでしたけど、MCUひとつも観たことがない人は正直しんどかったんじゃないですかね?

でも、それにしてもさあ。どんなことがあってこの子にはスーツ渡してもオッケーだな!ってなったにしてもさあ。しっかり監督しなきゃだめじゃない?いや、監督はしてたよ?してたどころか、ちょっと行き過ぎなくらいモニターしてた。でもそれなら大変なことになる前に行動を制限してくれたら良かったじゃないですか!!ってアイアンマンのおじちゃん(名前ド忘れした)に詰め寄りたかった。最後の最後で助けには来てくれても、めちゃくちゃ怖い思いはしたしかなりギリギリだったじゃん。

放任→危険な目に遭う→めっちゃ怒られる→成長、ってわりと子供や少年を主人公にした物語に多いパターンだと思うんですけど、もうなんか嫌なんですよ。子供が危険な目に遭うのも子供がめっちゃ怒られるのも。

放任されて好き勝手やるパートでは「ああ~~絶対この先悪いことが起こる、痛い目に遭う~~!!」と気が気でないし、痛い目に遭うパートでは「ああ~~だから言ったじゃん!!だから言ったじゃん!!」ってなるし、子供が痛い目に遭ってるの見るのは辛いし、大人にめっちゃ怒られるパートでもダメージを負い……みたいな感じで、気が休まらないんですよね。

繰り返し映像化されてきた原作を今改めて映画にするなら、そういうお決まりの流れから外れてほしかったな、という気持ちもあるかもしれません。

最後のシーン、基地(?)での社長(「ピーター・パーカー」に邪魔されて一向に名前が思い出せない)とのやりとりも、ほんとはカタルシスを感じる場面だったと思うんですけど、社長へのわだかまりのせいであんまりおお~~ってなれなかったんですよ。もったいない。

勝手に出掛けて連絡がつかなかったことをピーターが怒られるところとか、女の子が転校していっちゃうところとか、全体を通して子供の無力感みたいなものが繰り返し描かれて、悲しい気持ちになっちゃいましたね。続編に向けてのフリなのかもしれませんけどトニーーーー・スターーーーーーーーク!!!!!!!!!!(書いてたら急に思い出した)

しかしトニー・スタークが何考えてるのかよくわからなかったのは、シリーズをアイアンマンしか観て行かなかったのも大きいんだろうなと思ったので、間を埋めて改めて観たいな、と思いました。以下MCUの順番メモ(出典はWikipedia)。

『アイアンマン』(2008年)
インクレディブル・ハルク』(2008年)
アイアンマン2』(2010年)
マイティ・ソー』(2011年)
キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』(2011年)
アベンジャーズ』(2012年)
アイアンマン3』(2013年)
マイティ・ソー/ダーク・ワールド』(2013年)
キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(2014年)
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014年)
アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(2015年)
アントマン』(2015年)
『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016年)
ドクター・ストレンジ』(2016年)
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー: リミックス』(2017年)
スパイダーマン:ホームカミング』(2017年)

……いや、多いな!

 

家で観たもの

インクレディブル・ハルク」~ハルクって廃船って意味なんですね~

2017.08.24 thu

暑くて湿気の高いとこでの追いかけっこ最高!

初めの方の、ブラジルの町中を逃げ回るシーン。食べ物も洗濯物も、人も乗り物も動物もごちゃごちゃ狭いところに集まって、雑に存在している感じ。衛生面が心配になっちゃう感じ。ちょっと饐えたような臭いが漂ってきそうな感じ。今年の夏はずっと天気が悪かったこともあって、あのうんざりして何もする気にならない蒸し暑さが、ちょっと恋しくなりましたね。住むなら寒い国より暑い国がいいなあ、となんとなく思った。

派手な戦闘もしているわりに、全体的になんとなく地味なところが良かったです。主人公の顔のせいだろうか。けなしてるわけではないんですけど。

MCUシリーズ制覇するぞキャンペーン、先は長い。

 

「第三の男」~オープニングが盛り上がりのピーク~

2017.08.30 wed

大学のゼミの課題で読んだ「ヒューマン・ファクター」がとても好きだったので、グレアム・グリーンの他の作品も読みたいと思っていたことを数年越しで思い出し、タイトルを知っていた「第三の男」を読もうとして検索したところ、元々映画の脚本として書かれたとのことだったので、先に観てみました。

けして悪くはなかったんですけど、もっとものすごく面白いかと思ったな…。期待しすぎました。みんな演技が上手っていうことはわかった。あとオープニングがおっしゃれ~~でした。音楽も、映像も。テーマ曲が有名な曲だったはず…という予備知識はあったんですけど、これか~~。

あと、なぜかてっきりヒッチコック作品だと思ってたんですけど、何と勘違いしてたんだろう。『知りすぎていた男』あたりかな。

 

最後まで読んでくださった奇特な方、ありがとうございました。今度はもっと、観てみたいと思ってもらえるような感じに書きますね。

*1:映画観るとき映像や音のクオリティなんて意識したことなかったのに、場面の切り替わりが雑すぎてめちゃくちゃストレスだったし、一続きのシーンなのに音の質が急に変わるところがあってずっこけたし、テンポはなんか信じられないくらいだらだらしてるとこあったし、シリアスな長台詞は軒並み「原作ではもっといいこと言ってなかったっけ……?」って感じだったし、戦闘中に誰かが長台詞喋ってるとき他の人が棒立ちで見てる場面があって「いや突っ立ってないで仕事探しなよ??」ってなったし、ていうかそもそも長台詞を「長台詞だなあ…」と思わせてる時点で負けているよな?と思うし、CGは「予算が足りなくなくてもこんな感じなの…?これが邦画の限界なの……??世知辛……????」ってもはや胸が痛かった。

*2:以下敬称略でいきますけど、小栗旬は顔はそこまで似ていないし声もアニメとは割と違ったのに坂田銀時が現実世界にいたらこういう感じなのかもな~と思わされたし、橋本環奈はアニメの絵に混じっても違和感ないんじゃないかってくらい漫画のキャラクターとしての説得力があったし、菅田将暉は今あれだけ時代の寵児!!って感じのお洒落でイケイケなお兄ちゃんなのによくあれほどオーラを消せるな?!って感動したし、新井浩文って何の役でもわりと新井浩文なタイプの役者さんなんだと思ってたんですけど、あの新井浩文は知らずに観たら新井浩文って分からなかったかもしれない。安田顕はああこの人演技がうまいんだな……ってため息が出た。あんなに怒鳴ってるのにちゃんと台詞聞こえるのすごい。それから演技してるとこ初めて観た早見あかり、出番多くなかったけどいい仕事してましたね!あと長澤まさみは今後もコメディに出てくれ~!そして、危機感を覚えたのは吉沢亮なんですけど、あの人顔良すぎじゃありません?中高生くらいの頃は30代40代の個性派俳優~~みたいな人が好きだったのに、年々いわゆるイケメンを格好良いと思うことが増えてるんですけど、年齢のせいでしょうか…顔だけじゃないって知りたくないのでこれ以上彼については知りたくない……

*3:ホームカミングもプロムもそうなんですけど、アメリカの高校って男女ペアを作ってドレスアップして参加する行事多くないですか?ホグワーツにもそういう行事があったけど、イギリスでも一般的なのかな…あれを生き抜いてるってだけで、英米の人には勝てない気がする…他の国にもあるんだろうか…やだ……

懐かしさとは

私にとって、ふるさととは眺めるものだった。

水田、丈の低い野菜の畑、点在する木造家屋。大きな麦わら帽子を被ったおばさんが、何か農作業をしている。手拭いを肩にかけたおじさんの運転する軽トラックと、ヘルメットをかぶった中学生の自転車が、畦道をすれ違う。

都会ではなく、景勝地でもなく、わざわざ訪ねる人はなく、そこで生まれ育った人がただ暮らしている場所。さまざま不便はあるのだろうけれど、電気やガスや水道や生活必需品には不自由なく、原風景と言われるものの面影を残しつつも、東京のまんなかと基本のところは恐らくさほど変わらない現代の日本の生活が営まれている場所。

私はそれを、新幹線や高速道路を走る車から、窓越しに見たことがあるに過ぎない。でも、「ふるさと」と言われて思い浮かべるのは、そういう「どこか懐かしい」と形容されるような風景だ。

 

子供の頃、私の生活圏には田んぼも畑もなかった。ひとりで出かけられる範囲が狭かったというのもあるけれど、休日あるいは学校の行事で遠出をする道中のほかで田畑を目にすることはなかった。

それなのになぜ、春先に水の張られた田んぼや一面金色の稲穂を見て懐かしさを覚えるのだろう。私の懐かしさの感覚は、ずいぶんと心もとない。

私がふるさとと聞いて思い浮かべるべきは、6年ほど暮らした家の真横を走っていた高速道路の灰色の橋桁であり、10年余り暮らした団地のあちこちに配されていた謎のモニュメントであるはずだ。実際に長い時間を過ごした場所の風景よりも、ふるさとのステレオタイプみたいなものの方を懐かしいと思ってしまうなんて、阪神高速がかわいそうじゃないか。

 

人は、人類が生活するのに適した環境を、美しい、好ましいと感じるものなのだと聞いたことがある。木々や花、海や川といった「自然」を愛するのは、木の実や果物、魚、それに水などを得やすい場所で暮らすことが、生き延びる上で望ましかったからだと。

その特徴は、「どこか懐かしい」風景と重なる。私が田園に心惹かれるのは、人類が太古の昔から暮らしてきた環境に近いからなのかもしれない。

 

でも。私が美しい、好ましいと感じる風景は、豊かな自然に限らない。阪神高速の橋桁については特に思い入れはないけれど、大都会の中の景色に惹かれることだってある。人工物に対して私が感じる美しさ、好ましさは、どうしてくれるんだ、と。

例えば、職場から見渡せる、西新宿のオフィス街。雨上がりに陽が差すと、濡れたビルの肌がきらきら光って、それがちょっと息を吞んでしまうくらいきれいだ。

私に景色を美しい、好ましいと思わせているのが生存のための本能だというのなら、これは一体どういうわけで湧いてくる気持ちなのだろう。雨や朝露に木々の葉が光るさまを無意識のうちに思い出して、懐かしんでいるのだろうか。

 

それってちょっとSFみたいだ、と想像する。

遠い未来。人類は環境を制御されたシェルターの中だけで暮らすことを余儀なくされている。シェルターで生まれ育った私は森を知らないし、雨が降るところだってはめ殺しの覗き窓越しにしか見たことがない。

ふと外を見ると、数日降り続いた雨は止んでいて、雲間から太陽が顔を出し、林立するシェルターが光を浴びている。猛毒の雨に、有害な太陽光。それらは人間をシェルターに追いやった原因にほかならないはずなのに、その眺めはどうしようもなく私の心を打つ。見たことのない森のために、かつて地球に存在していたという人類が暮らすのに適した環境の記憶のために、私の涙は流れている。私はそれを知る由もない。

食べられる食べられない問題

食べられるか食べられないか、という問題に、最近よくぶつかる。

食っていけるいけないという経済事情の話ではなく、食うか食われるか!?というシビアな生存競争の話でもなく、食材や料理を食べても大丈夫かどうかの判断の話だ。

買ったばかりだったり賞味期限や消費期限内だったりするものはいい。臭いや見た目に異常がない限り食べる。傷んだり腐ったりしていて明らかに様子がおかしいものも難しくない。迷わず捨てる。

問題は、ほぼ確実に大丈夫なものと、絶対だめなものの、あいだのもの。

例えば、シチューは何日目まで食べられるのか?卵は賞味期限をどれくらい過ぎても大丈夫?昨日買ったおひたしは?

 

普段行くような飲食店では、食べてはいけない状態のものが出てくることはまずない。味の良し悪しはともかく、食中毒や肝炎その他の病気になるリスクは、ほとんど考えなくていいはずだ。実家でも、傷んでいるものは基本的に食卓に上がらなかったし、生焼けの危険があるものは母が誰よりも先に手をつけて「あっ、待って、まだだった!」とストップをかけていた。

だから、考えてみると、実家暮らしの頃は、食べられる/食べられないのジャッジを自分でする機会がとても少なかった。

さすがに出されたものを全部無条件に口に入れていたわけではなく、冷蔵庫の奥にあった粉チーズの賞味期限が1年以上前だった!!とか、ずっとかごに入っていたみかんを持ち上げたら裏側が緑と白のツートンカラー!!!!みたいな時は食べずに捨てていたけれど、賞味期限が明示されていない生野菜や自分で調理したものの限界の見極めについては、経験値が足りていない。実家を離れて初めて気が付いた。

 

母に「冷凍した肉ってどれくらい持つかな」とか「賞味期限1週間過ぎた納豆食べてもいいと思う?」とか訊くこともあるけれど(「わりと」とか「いいんじゃない?」みたいな答えしか返って来ない)、毎度訊くのも面倒だし、実物を見ないと何とも言えないだろうし、結局は自分で決めるしかない。当然だけれど。

ちょっとあやしげな食べ物の臭いを嗅いだり、おかしなところがないか凝視してみたり、あるいは少し舐めてみたりしていると、あ、いま、生き物だ、と思う。口に入れるものの状態を己の五感で確かめるというのは、生き物としてとても正しいことだという気がする。

よくエビとかウニとかホヤのような食材について、「初めに食べようと思った人はすごい」という話をするけれど、きっとそういう見た目に癖のあるものに限らない。大昔の人間たちは、他の動物の様子なんかを窺いつつ、おそるおそる口にしてみて、大丈夫だったり大丈夫じゃなかったりしながら、食べられるものを増やしてきたんだろう。

私は人体に害があるかどうか明らかになっていないものに挑んだりはしないので、先人たちの勇気や切実さ、緊張感には遠く及ばないけれど、そういう太古からの営みに参加している気分を少しだけ味わっている。

 

今のところの私のトライアンドエラーの結果はというと、シチューは食べきるのに3日かかったけど最後までおいしかったし、賞味期限を3日過ぎた卵を食べてみたけどお腹痛くなったりしなかった。おひたしも、2日目までは全然平気(※個人の感想です)。

ただひとつ、全然だめだったのはドレッシング。消費期限を2週間過ぎた胡麻ドレッシングは油粘土の臭いがして、口に入れた瞬間変な声が出た。古くなった油の威力、すごい。なんとなくドレッシングは腐らないものだと勝手に思っていたけど、油断大敵だった(油だけに)。

そのどうしようもないしかたなさを愛したい――『ラ・ラ・ランド』について

ラ・ラ・ランドを見ました。一か月くらい前、図らずもアカデミー賞授賞式の日に。いい映画でした。

gaga.ne.jp

今初めて公式サイトを開いて、絶妙な見づらさにおお…となっていますが、いい映画でした。

※以下、内容にめっちゃ触れます

オープニングの過剰なくらいポジティブでハッピーなムードに、これから何の話が始まるのか全くわかってないというのにとりあえず泣いて、途中あちこちで引っかかっては「あ~これは好き~~」と持ち直す、というのを何度か繰り返し、終盤のミアのオーディションの歌で「あ~~~」となって、ラスト、「あ~~~それはずるい~~~~~ずるいわ~~~~~~~」という抵抗もそこまでのもやもやも全部吹き飛ばされて、放心状態でエンドロールを見送りながら、いい映画だった…いい映画だった……とひたすら思っていました。

事前情報は出来るだけ入れないようにしていたのですが、「ラストがずるい」「そういうことするんだ…と思った」みたいな感想が結構目について、何か仕掛けがあるらしいということだけ察した状態で観に行ったせいで、途中まで、ミアがセブだけに見えている幻だったり夢オチだったりしたらやだなあと気が気じゃありませんでした。

ラストで全部ひっくり返す話が絶対に嫌かというとそうではないんですけど、この作品でそれをやられたくないな、って思ったんですよね。ミアとセブの物語を見守ったこの2時間くらいの私の気持ちを、やり場のないものにしないでほしいな、って。その思いが、物語が進むにつれてどんどん募っていって、終盤のあたりは、夢オチは嫌だ、夢オチは嫌だ……と念じてました。思いが通じて良かったです。

話題になった映画だけあって、賛否さまざまなレビューを見かけたんですけど、この作品を低く評価する人たちがこぞって「みんなは好きみたいだけど」「良いものだと思われているみたいだけど」という前提に立っていることがとても気になっています。その注釈、要るのか?プラスにはたらくと思って書いているのか?って。だって「みんなが好きなものを批判する俺かっこいい」っていう態度が許されるのは中学生、どんなにがんばっても大学生までじゃないの?って、なんか、びっくりしてしまったんですけど……

私は「人とは違うものが好きな…俺……!(フッ)」みたいな時期を経て、色んなことが噛み合ってたくさんの人の愛を勝ち取った作品を「よかったねえ」って愛でることに幸せを感じるようになって、それを自分としては健全だと思っていたもので。
「流行ってるものがみんないいものだとは限らないけど、流行ってないものの方がかっこいいかというとそうでもない。でもとりあえず多くの人に愛されてるものにはそれなりの理由があるはずなのでそこには敬意を払いたいし、たくさんの人と好きなものを分かち合えると楽しい」というのが今の感覚なんですけど、そこに辿り着いてみると、「俺の感性は人とは違うんだ…誰もわかってくれない…生きづらいぜ……」って思ってるよりも、ずっと楽だし楽しいんですよね。まあ、これはあくまで一鑑賞者としての話なので、批評でごはんを食べている人が取るべき姿勢はまた違うのでしょうが。

それにしたって、人と違う感性、もっと言えば人より優れている感性を顕示するスタンスでいくのなら、「みんなは好きみたいだけど」って、他の人たちがどう評価しているかをめちゃくちゃ気にしている素振りなんて見せちゃだめじゃないですか?そこには触れずに、淡々と、堂々と、批判すればいいのに。

 

……なんか文句ばかりになってしまいますが、そもそもこの映画って、そんなに手放しで絶賛されているのか?というのも引っかかりました。私がツイッターで見た限りでは、褒めている人たちも、「オープニングとエンディングがとにかく良くて、まんなからへんはちょっと停滞するし突っ込みどころもたくさんあるけど……全体的には、好き!」くらいの感じが多かったんですよ。私が目にした範囲の話ではありますけど。

こんな長々と感想を書いておいてアレなんですが、この映画突っ込もうと思えばめちゃくちゃ突っ込みどころだらけじゃないですか。セブのバンド活動が軌道に乗り始めた時のミアの抗議(本当の夢を追いなさいよ的な)はありふれていてちょっと気持ちが離れてしまったし、観客に酷評されていたはずのミアの一人芝居の何がそんなに評価されたのか映画を観ている私たちにはよくわからなかったし、オールドファッションなジャズはもうだめだと言われていたはずなのにセブの店はいい感じに繁盛しているしその理由は語られないし……って挙げていくと、あれ、私この映画ほんとうに好きなの?と自信がなくなってきてしまうくらいなのですが、それでもやっぱりトータルでは「よかった」「好き」としか言えない、なんだか不思議な映画だったんですよね。私にとっては。

いろいろ引っかかりつつも、全体としてそういう感想になったのは、たぶん、いたるところで言われているオープニングとエンディングとあともうひとつ、オーディションの曲の存在が大きかったんじゃないかなあ、と思います。

全体的にライトな曲が多い中で(一般的なミュージカルに比べて、ここぞ!という時にあんまり歌わない映画ですよね。心情を吐露するような歌がないというか)、オーディションのところはちょっと異質だった気がします。

あまりにもオープニングが良かったもので、「この映画、オープニングがピークだったらどうしよう……?」と不安になり始めていた私をぐっと引き寄せ直してくれたのがこの曲でした。

www.youtube.com

成功を掴むほんの一歩手前に立ったミアが、ふと思いついたみたいに語り出す、真冬のセーヌ川に裸足で飛び込んだおばさんの話。

もうね、ぼろぼろ泣いてしまって。

見られる側に立つ者、表現者の業、みたいな話に、弱いんですよね。仙台までわざわざ観にいったキャバレーの表題曲も、そういう歌だったんですけど。

この歌にしても、いろいろ突っ込みどころはあるとは思うんです。映画館を出てから(近くの喫茶店でやたらまん丸なオムライスを食べながら)考えていたんですけど、あの場面まで、ミアが演じるということに対してそこまでの切実さを持っていた感じはあまりしなかった。確かに頑張ってはいたけれど、ミアは女優にならなくても、カフェの店員だってそれなりに務まるし(オーディション受けるのをやめればもっとちゃんとした店員にもなれた気がする)、本人も一度そうしようとしたように、大学を出て普通の会社でやっていくこともきっとできた。普段の言動だってそう。セーヌ川に裸足で飛び込んでしまうタイプには見えなかった。

でも、帰りの電車でApple Musicに登録してサウンドトラックを聴き(便利な時代だ!)、メイキングの映像をいくつか見て、やっぱり思い直したんですよ。

ミアはセーヌ川に飛び込めない人「だけど」あの歌は良かった、ではなく、「だからこそ」こんなに私の胸には迫ったんじゃないかな、と。

私は前作のセッションも観てないし、監督のバックグラウンドも全然知らないんですけど、監督ももしかしたら飛び込めない方の人なんじゃないかと思ったんですよね。少なくとも、こんな凝ったカメラワークを考えるような人は、狂人と紙一重の天才というタイプではなさそう。

周りにアマチュアオーケストラをやっている人とか同人活動をしている人とかが多いので、プロとアマチュアのあいだにたゆたっている人たちについて時々考えるんですけど。いや、アマチュアに話を広げるまでもないかもしれないですね。プロの中でも誰の目にも明らかなくらい圧倒的な才能を持った人なんて本当にごくわずかで、自分がそちら側ではないと分かっていながら、それでも表現の世界に身を置いてしまう、身を置かずにはいられない人たちが大多数なんじゃないでしょうか。

穂村弘さんが先日公開されたぼくのりりっくのぼうよみとの対談の中で「表現そのものは才能がなかったとしてもやめることができないから残酷なんだよね」と端的におっしゃってたんですけど*1、オーディションの曲には、ひいてはこの映画には、そういう残酷さ、どうしようもなさへのまなざしが、あったような気がします。

そう、どうしようもない。どうしようもないな、って、観ている間何度も思ったんですよね。そういえば。

セーヌ川に裸足で飛び込んで、「また同じことをしてやる」と笑って言える人への憧れ、そこまで狂えはしないのに夢の世界に身を置こうとしてしまう自分へのある種の絶望も、「ずっと愛してる」と言える相手とは結婚することにならなかっためぐりあわせも、女優として成功する、自分のお店を持つ、というそれぞれの夢が、その夢を叶えるために一緒に戦ってきた相手がそばにいない状態で実現してしまうということも。

みんな、どうしようもなくて、やりきれない。そんな仕方なさに対する、突き放すとも憐れむともつかない監督のまなざしが、夢のような色彩とお洒落できれいな音楽にくるまれながらも確かにあって、それが私は好きだったのかな、というのがちょっと記憶が薄れつつある今の時点の感想です。

あ、あと、よかったなあと思ったのは、二人の恋がしっかり終わったところ。ずっと夢見てるみたいなこの映画の中でも最高にファンタジックなあの走馬灯は、すごく美しい恋の終わりの描き方じゃないですか。美しすぎて遣る瀬なかったけど。終わることなどないと希望を持たせてくれる話もいいけれど、ひとつの終わりをきちんと描いてくれる話も好きだな、と思いました。

 

f:id:katanoina:20170316205041j:image

20170227「LA LA LAND」@TOHOシネマズ新宿

追記:

ところで……せっかくだからいい音で観たいと思ってTOHOシネマズ新宿に行ったんですけど、あの劇場の周りの環境まじでやばいっすね!薄汚さが!!金管の高い音まで割れずにきれいに聴こえるドルビーアトモスの音響に包まれていたところから一変、最低な喧噪!!歩いてるとキャバクラやら相席居酒屋やらありとあらゆるキャッチに声掛けられるし、道にはゴミがいっぱい落ちてるし。

虐殺器官」を観に来たときはそのディストピア感がマッチして良かったんですけどね。今後はなんかそういう殺伐とした映画を観る時にだけ来ることにしよう、と思いました。

*1:この対談スリリングで面白いのでぜひ読んでください

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みそ汁との和解

実家を出て7か月半にして初めてみそ汁を作った。はじめからだしが混ざってるみそで、すごく簡単なやつだけど、たぶん小学校の調理実習以来だった。

みそ汁を作るぞ、と決めて買い物をしていたわけではなく、冷しゃぶを作ったら茄子ともやしが余って(冷しゃぶのたれの袋に書いてあったレシピに従って茄子をレンジでチンして縦に6つくらいに裂いて添えたところ、やたらおいしくてテンションが上がった)、お、なんかみそ汁っぽい取り合わせだな、と思って、突発的に。

だからどうしたという話なのだが、自分がなんとなくみそ汁を作る気分になったというのが私としてはちょっとした事件だった。

というのは、私にとってみそ汁というのは、出されたら食べるけど自らすすんでは食べないもので、例えばバイキング形式だったら取らないな、という感じのものだったから。子供の頃は好きでも嫌いでもなかったはずなのだけれど、いつからか、あまり好きではなくなっていた。

私の母は有難いことにかなりちゃんとごはんを作ってくれる人で、食卓には、ほぼ毎晩、当然のようにみそ汁が出てきた。食べられないほど嫌いというわけではないので残しはしなかったけれど、そこまで好きじゃないなあとぼんやり思ってるものを毎日食べてるとどうなるかって、どんどん好きじゃなくなっていくのだ。ぼんやりした「好きじゃなさ」の輪郭が、どんどんはっきりしていく感じ。

そんなわけで、ひとり暮らしを始めて起こった大きな革命のひとつが、みそ汁からの解放だった。毎日作ってくれていた母には申し訳ないにも程があるし、あらゆる方面に怒られそうだけど、もうみそ汁を食べなくていい!と気づいた時、ああ、家を出てよかったなあ、としみじみ思った。

実家も職場も都内なのにわざわざ独立したので、どうして?とよく訊かれる。時期も中途半端だったし。家を出たかったから出た、という以上の説明ができなくて、毎回、嘘にならない理由を適当に答えている。

でも、こういう小さなことの積み重ねが、結構大きかったんだろうな、と思う。みそ汁を食べたくなかったのではない。いや、食べたくなかったけど、原因はそのこと自体ではない。毎日みそ汁を食べたりとか、そのほかいろいろな小さな諦めを重ねていくことで、自分の好きなもの、好きではないものが、じわじわと曖昧になっていく感じが、まずい、と思った。それは共同生活を送る上では必要な譲歩であり付けるべき折り合いだとは思うし、私のしていた我慢なんて大したことではなかったと分かっているけど、ここにいたら、ずっとこのままだ、という、ささやかな危機感みたいなものが、たぶんあった。

でも、半年と少し経って、私は自分で作ってまでみそ汁を食べている。おいしかった。余っていたレタスとトマトも放り込んで、思い付きで豆板醬を入れてみたら、みそ汁というよりミソスープという感じの味になったけれど、それはそれで乙なものだった。

茄子ともやしとトマトとレタスに火が通っていく捉えどころのない香りが、だしの混ざっている液状みそをお湯に入れた途端、てきめんにみそ汁の匂いになって、わー、みそ汁、作っちゃったよ、とちょっと笑ってしまった。みそ汁を食べなくてもいいんだ!と思ったときよりも、余程、自由になった気がした。

そうやって少しずつ、いろんなものと和解している。食べ物だけに限っても、たくさんある。実家にいるときは常に2パックくらい買い置かれていたのに半年に一度食べるかどうかだった納豆を、冷蔵庫に常備するようになったりとか。まだ仲直りできていないものもある。生のタマネギとか。って食べ物ばっかりかよ。

私は「自分って何だろう?」「私の生きる意味とは?」みたいなことを考えずに思春期を通り過ぎ、自己分析というやつが嫌いすぎてろくにやらないまま社会人になってしまった。今ようやく、自分の好きなものや嫌いなものにちゃんと向き合いはじめたのかもしれない。情けないことだけれど。

長澤まさみに「あんたもしかして死んでんじゃない?」って仙台で言われた話

…というわけで行ってまいりました、キャバレー仙台公演。


【ゲネプロ30秒】松尾スズキ×長澤まさみ 伝説のミュージカル「キャバレー」が10年ぶりに復活!

この後ちゃんと確認したら「キレイ〜神様と待ち合わせした女〜」(2014)は観てなかったので小池徹平コンプリートではなかったわけなんですけれども。

ツイッターで何度も言ってることなのですが小池徹平さんは本当に見るたび佇まいがミュージカルの人らしくなっていて、すごく幸せな気持ちになります。やったー!って。勝手に。

今回もね、小池徹平さんも、良かったんですけど。しかし、何しろ、長澤まさみの魅力が!!すごかった!!すごかった……!!

これはキンキーブーツを観た時の小池徹平さんと三浦春馬さんについてのツイートなんですけど、長澤まさみさんもちょっとそういうところがあって。中学生のときには「世界の中心で、愛をさけぶ」、高校生のときには「プロポーズ大作戦」と、私の中高6年間を通してずっと彼女は好きな女性芸能人ランキングのトップ争いをしてる感じで、出るドラマ出るドラマみんな見てるし放送翌日はみんなめっちゃ長澤まさみの話してる!みたいな状態だったんですけど、その頃ちょうどサブカルこじらせ女子に片足を突っ込んでいた私は「確かに美人だけどさ~~私は麻生久美子とか市川実日子とかの方が好きだわ~~~」とか思っていたという(お二人のことは今でも大好きですが)。

それが、キャバレーの猥雑な雰囲気の中に彼女が現れた瞬間。「長澤まさみーーーーー!!!!」って、応援上演だったら両手にサイリウム持ってハッピ着て立ち上がってたとこだった(応援上映でも立ち上がっちゃだめです)。そこからずっと、目を離せなかった。

背が高くて手足が長いからそれだけで存在感があるし、仕草に華があって、あと表情がいちいち魅力的だった。キャバレーの歌姫という役柄のせいもあるかもしれないけど、自分が魅力的だってことを知ってる人!っていう感じだった。

ずっと大勢の人の視線や好意を浴びてきた人には、独特の凄みのようなものがある気がする。キンキーブーツの時も思ったけど、そういう見られ続けてきた人の魅力、迫力は、生で見るとやっぱり一番実感できるなあと思う。こうやって、みんな好きだから、人気があるからという理由で勝手に見くびっていた人たちのことを、再発見というか、ちゃんと素直に認められるようになるのは、とてもハッピーでラッキーなことな気がする。全ての才能ある人たち、魅力的なお芝居に出てほしい。

作品全体を見ると、演出にはちょこちょこ気になるところがあったし(ってメモってあったから書いてるけど、何が気に食わなかったのかは忘れてしまった)、ナチス政権が台頭しはじめる頃のベルリンが舞台ということでその辺もっと踏み込むのかと思ったらそうでもなくてちょっと肩すかしだったりとか、細かい文句はいろいろあるんですけど、長澤まさみのミュージカルの才能を見つけてくれてありがとうの気持ちだけでも東北新幹線往復22,400円の元は取りました。

物語の終盤、恋人との別れを経てキャバレーの舞台に立ったサリーが(そういえばここまであらすじも書かずに来てしまいましたが、長澤まさみの役どころはベルリンのキャバレーで働くイギリス人の歌姫サリー・ボウルズでした)「あんたもしかして死んでんじゃない?」って吹っ切れたみたいな笑顔でお客に言い放つのが、どうしてかわかんないけどなんかめちゃくちゃ泣けた。

恋人との子供を身ごもって、一緒にアメリカに行って子供を育てようって言ってもらったのに、その希望に従うことが彼女には出来なかった。それよりベルリンのキャバレーで歌うことを選んじゃう。ナチスが台頭し、戦争の影が差すベルリンの。

そんな舞台でサリーはどうしようもなく輝いていて、そのやけくそじみた明るさが、舞台に上がることを選んでしまう人のかなしさというか、やりきれなさというか、業みたいなものを引き立たせていた気がする。

そこに投げ込まれる「あんたもしかして死んでんじゃない?」。

感想で言及している人が見つけられなかったので、私の幻聴っていう可能性が捨てきれないんですけど、長澤まさみにそれを言われた瞬間、嗚咽が洩れそうになったんですよね。ほんと、なんだったんだろうあれ。

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(どうしても向かいのマンションが写り込んでしまって、母に「巨大化したまさみちゃんが仙台の街を踏み荒らす話やったんか?」って言われた写真)

20170211「キャバレー」@仙台サンプラザ